<曲目解説> ドヴォルザーク:交響曲第6番
6月3日の第62回定期演奏会のメインは、ドヴォルザークの交響曲第6番。
あまり演奏機会に恵まれない曲ですので、事前にこの曲が誕生するに到った経緯をご紹介します。
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ドボルザークの顔はよく知らている。一方、その生涯はあまり知られていないかもしれない。それは一言で言えば、幸運な出会いの連続である。
例えば、職業専門学校に上った時、ドイツ語教師をしていた教会のオルガニスト、アントニン・リーマンに音楽の才能を見出され、リーマンが両親を説得して音楽の道に進めさせてしまう、とか、その音楽学校では学費に苦労していたところ、裕福な同級生カレル・ベンドルとその一家から全面的に援助されるようになった、とか・・・
学校を卒業し教会オルガニストの職を得ようとして果たせず、止む無くバイオリニストとしてオーケストラで働き始めたら、そのオーケストラでワーグナーが自作品を指揮しプラハ初演するとか、その後ビオラ奏者で転職した先のオーケストラの常任指揮者にスメタナが就任して数年間指導を受けられるようになるとか・・・
極めつけは、オーケストラを辞め作曲家を志し、いくつかのコンクールに応募したところ、審査員だったブラームスから認められて友達付き合いするようになったり、ブラームスが売り込んでくれたお陰で当時の楽譜出版大手ジムロック社から楽譜が出版されるようになったり・・・
こうも都合のいい出会いが続くと本人の行動がすっかり影が薄く見えてしまう。
これらの出会いが1つでも無ければ、今日知られている作曲家ドボルザークは有り得なかった訳で「運も才能のうち」という事なのか。
第6番の交響曲の作曲の経緯も例外では無い。
19世紀後半から20世紀初頭を代表する指揮者であるハンス・リヒターが、1879年11月某日ウィーンフィルの演奏会で取り上げたのはドボルザークのスラブ狂詩曲第3番だった。
演奏会に先立って行われたドレスリハーサル(貴賓を招いての演奏会形式でのリハーサル)は好評で、作曲者ドボルザーク自身もステージ上に呼ばれ喝采を浴びている(この時ブラームスも同席していた事がドボルザーク本人の手紙に書かれている)。
にもかかわらず、演奏会本番では聴衆の反応は冷ややかだった。
不本意な結果を受け、リヒターはすぐさまドボルザークに新しい交響曲の作曲を迫った。この新進の作曲家の力量を是非ともウィーンの聴衆に認めさせたかったのだ。斯くして、翌年書き上げられたのが、このニ長調の交響曲である。
ところが完成してみると、リヒターは出来栄えを称賛したものの、なぜか理由をつけてなかなか初演しようとしない。実は当時ウィーンでオーストリア帝国内の民族運動への反感が高まっており、チェコ人の作品を取り上げにくい情勢になっていたのだった。
しびれを切らせたドボルザークは、結局プラハでチェコフィルによる初演を実現させてしまうのだが、リヒターはその不義理を埋め合わせるかのように1882年にロンドン公演でこの曲を演奏している。
結果的にこれがドボルザークの名声を高める事になる。
ロンドンの演奏会は大成功で、またジムロック社から出版された本作の楽譜も諸方面から注目を集め、ついにはロンドン・フィルハーモニック協会から交響曲第7番の作曲を依頼されるまでになる。
この曲は言わば、ドボルザークの出世作となったのである。
曲はブラームスの交響曲第2番(1877年ウィーン初演)を思わせる。1楽章と4楽章は調性・拍子・構成ともにブラームスの曲に倣っている。これは当初初演を想定していたウィーンの聴衆に合わせた趣向である。とは言えドボルザークらしさに溢れており、ブラームスの交響曲の類似性など言われなければ気づかない程である。
なお、最初に出版された交響曲だったため長い間、第1番とされていたが、ドボルザーク自身は、この曲を最後まで第5番と呼んでいた。ドボルザークは紛失したと思い込んでいた本当の第1番の交響曲の草稿が発見でされて、やっと第6番の交響曲と呼ばれるようになったのは、リヒターが願って果たせなかったウィーンフィルによる初演(1942年)の10年ほど前の事である。
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こんな経緯で誕生したドヴォルザークの6番。
この曲に興味を持たれ、定期演奏会の入場整理券をお持ちの方は、どうぞお忘れなくご来場ください!
例えば、職業専門学校に上った時、ドイツ語教師をしていた教会のオルガニスト、アントニン・リーマンに音楽の才能を見出され、リーマンが両親を説得して音楽の道に進めさせてしまう、とか、その音楽学校では学費に苦労していたところ、裕福な同級生カレル・ベンドルとその一家から全面的に援助されるようになった、とか・・・
学校を卒業し教会オルガニストの職を得ようとして果たせず、止む無くバイオリニストとしてオーケストラで働き始めたら、そのオーケストラでワーグナーが自作品を指揮しプラハ初演するとか、その後ビオラ奏者で転職した先のオーケストラの常任指揮者にスメタナが就任して数年間指導を受けられるようになるとか・・・
極めつけは、オーケストラを辞め作曲家を志し、いくつかのコンクールに応募したところ、審査員だったブラームスから認められて友達付き合いするようになったり、ブラームスが売り込んでくれたお陰で当時の楽譜出版大手ジムロック社から楽譜が出版されるようになったり・・・
こうも都合のいい出会いが続くと本人の行動がすっかり影が薄く見えてしまう。
これらの出会いが1つでも無ければ、今日知られている作曲家ドボルザークは有り得なかった訳で「運も才能のうち」という事なのか。
第6番の交響曲の作曲の経緯も例外では無い。
19世紀後半から20世紀初頭を代表する指揮者であるハンス・リヒターが、1879年11月某日ウィーンフィルの演奏会で取り上げたのはドボルザークのスラブ狂詩曲第3番だった。
演奏会に先立って行われたドレスリハーサル(貴賓を招いての演奏会形式でのリハーサル)は好評で、作曲者ドボルザーク自身もステージ上に呼ばれ喝采を浴びている(この時ブラームスも同席していた事がドボルザーク本人の手紙に書かれている)。
にもかかわらず、演奏会本番では聴衆の反応は冷ややかだった。
不本意な結果を受け、リヒターはすぐさまドボルザークに新しい交響曲の作曲を迫った。この新進の作曲家の力量を是非ともウィーンの聴衆に認めさせたかったのだ。斯くして、翌年書き上げられたのが、このニ長調の交響曲である。
ところが完成してみると、リヒターは出来栄えを称賛したものの、なぜか理由をつけてなかなか初演しようとしない。実は当時ウィーンでオーストリア帝国内の民族運動への反感が高まっており、チェコ人の作品を取り上げにくい情勢になっていたのだった。
しびれを切らせたドボルザークは、結局プラハでチェコフィルによる初演を実現させてしまうのだが、リヒターはその不義理を埋め合わせるかのように1882年にロンドン公演でこの曲を演奏している。
結果的にこれがドボルザークの名声を高める事になる。
ロンドンの演奏会は大成功で、またジムロック社から出版された本作の楽譜も諸方面から注目を集め、ついにはロンドン・フィルハーモニック協会から交響曲第7番の作曲を依頼されるまでになる。
この曲は言わば、ドボルザークの出世作となったのである。
曲はブラームスの交響曲第2番(1877年ウィーン初演)を思わせる。1楽章と4楽章は調性・拍子・構成ともにブラームスの曲に倣っている。これは当初初演を想定していたウィーンの聴衆に合わせた趣向である。とは言えドボルザークらしさに溢れており、ブラームスの交響曲の類似性など言われなければ気づかない程である。
なお、最初に出版された交響曲だったため長い間、第1番とされていたが、ドボルザーク自身は、この曲を最後まで第5番と呼んでいた。ドボルザークは紛失したと思い込んでいた本当の第1番の交響曲の草稿が発見でされて、やっと第6番の交響曲と呼ばれるようになったのは、リヒターが願って果たせなかったウィーンフィルによる初演(1942年)の10年ほど前の事である。
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こんな経緯で誕生したドヴォルザークの6番。
この曲に興味を持たれ、定期演奏会の入場整理券をお持ちの方は、どうぞお忘れなくご来場ください!
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